「失う事」で得る「本当の幸せ」

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今日は七夕ですね。
七夕になると、思わず「今年はどんな幸せを願おう?」と一瞬考えてしまうのは、子供の頃に短冊を書いたせいでしょうか(^-^)

先日、日経ビジネスオンラインの宋文洲という方の記事の中で、ある古い「言い伝え」を見て、目がとまりました。

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神が人々を幸せにするために、天界から降りてきました。
失明した人は神に「私は、愛する家族の顔も綺麗な夕日も見たことがありません」と訴えました。
神が彼に視力を与えると、彼は幸せになりました。

「私は凍土の上でも炎天下でも労働を厭いませんが、働くための土地は洪水に流されました」
と訴えた農民には神は農地を与えました。
農民は幸せになりました。

貧乏な青年がやって来て言いました。
「神様、私にはお金がなく家族も持てません」と。
神は彼にお金と美しい妻、可愛い子供を与えましたが、青年は暗い顔で
「神様、私には才能もありません」とさらに訴えました。
すると神は彼に才能も与えました。

数日後、青年はまたやってきてとうとう言いました。

「神様、私には幸せがありません。ください」と。

神は少々躊躇された後、「(幸せを)与えよう」と言って、これまでに与えたすべてのものを取り消しました。

その結果、青年は一人ぼっちのホームレスになり、飢餓と悲しみと孤独に暮れる日々を送ることになりました。

2年後、神は青年に家族だけを返しました。
すると青年は「私は幸せだ!」と号泣しながら妻と子供を抱きしめました。

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この言い伝えが、私が目にとまってしまったのは、個人セッションの中でも、よく起こることが古くからの「言い伝え」になっていたからでした。

いままで「ない」と思っていたものが、セラピーの中の経験を通して「あったことに気付く」方は大勢います。

0%に感じていたものが、実は、存在していたと真に気付いた時、人は涙を流し穏やかな顔でこう言います。「とても幸せな気持ちです」と。

今の日本は、歴史的に見ても、世界的に見ても、あるものだらけです。
「本当になくて、死ぬほど苦しんだり、生命が脅かされたり、人生が突き落とされること」
を味わったことがありません。

現代の私達は、(生死をかけた戦争を経験している高齢世代を除き)生まれたときから、生活に必要な条件が「ある」ことが当たり前です。人生も自由に選ぶことができます。

そのため「生きることに必死にならなくてよくなった」先進国では、自分を突き動かすものを見つけられず、ニートや引きこもりといった現象が生まれてきているという説もあります。

「平和だけど幸せでない」「親がいても幸せでない」「ごはんは食べられるけど幸せでない」「自由はあるけど、選ぶことができず幸せでない」という時、

人は「いまあるもの」を全て無くしたら、幸せになるのでしょうか?

もし、いまあるものを次々無くしても幸せにならないとしたら、一体幸せはどこに存在しているのでしょうか。

植物は、常に土を乾かさないように毎日のように少しづつ水をあげていると、いつでも水があるのが当たり前になります。そのため、根を大きく張らないので成長しないか、根腐りするかのどちらかだそうです。

逆に、土がしっかり乾くまで待つと、水を求めて、どこまでも根を伸ばすため、結果的には、大きく根を張り、大きくて丈夫な植物になります。
そして、水が来た時には、すごい勢いで水を吸い上げます。
水がある瞬間は、植物にとって「最高に幸せな状態」です。

腐らせる水も、最高に幸せな状態にさせる水も、成分は一緒の同じ水。

下手すれば、水があるのが当たり前になりすぎて、幸せになれない時、
自分に本当に幸せを感じさせてくれるのは「水」という「モノ」ではなく、
「乾く」「失う」という「経験」なのかもしれません。

私は、今日の七夕、無いものを願わず、あるものに感謝してみようと思っています(^-^)


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